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兵庫県立大学大学院看護学研究科 21世紀COEプログラム
21coeプログラム教育セミナー

サバイバー・ギルト:災害後の人々の心を理解するために

講師:兵庫県立看護大学 名誉教授
バトリシア・アンダーウツド
翻訳:ウィリア厶ソン彰子/編集:増野圓恵

本稿は、2004年12月14日に兵庫県立大学大学院看護学研究科で行われた第2回COEセミナーの講演内客を購漬者バトリシア・アンダーウッド教授の許可を得て編集したものである。

災害と心的外傷反応

皆さんは、心的外傷反応が、異當な出来事に対する正常な反応であることはご存じでしょう。程度の差こそあれ、災害を経験した全ての人が、精神的苦痛や恐れ、安心感や豊かな生活の喪失といった出来事を経験します。その結果、多くの人が心的外傷反応を経験すると思われます。その反応は軽いものから激しいものまであり、災害の結果や個人的要因、環境の影響によって異なります。
心的外傷反応は、食生活や睡眠パターンの変化などとして現れます。また、弧独を恐れたり、忘れっぽくなったり、集中力を欠いたり、攻撃的になったりします。感情は不安定になり、しばしば無気力感と過剰な興奮状態の間で揺れ動きます。無気力な状態では、表情が無くなり、ぼんやりと霧がかかったようで、全く何の感情も持たないようになります。

また、他者を避けるような傾向になります。一方、過興奮の抗態では、怒りっぽく、過敏となり、神経質ですぐに感情を爆発させるようになります。
  人々は、さらに大きな災害が発生することに恐怖を覚えます。たいていの人は役立たずであることを恥じます。災害の渦中にあっては、全ての被災者が役立たずであると感じ、それ故に、被災者は恥ずかしいとすら感じるのです。全ての生存者は、程度の差はあれサバイバー・ギルトを体験するでしょう。生存者は、生き残ったことに感謝すると同時に、生き残ったことに罪悪感を持つのです。この罪悪感というのは、自分が生存したということだけではなく、傷つかず、少しの損害しか受けていないということで増強します。心的外傷反応は非日常的な出来事に対する正常な反応なのです。

サバイバー・ギルトとは

◆ギルト(罪)の文化とシェイ厶(恥]の文化◆

サバイバー・ギルトは,心的外傷反応の特別な一側面です。そのことを議論する前に、一般的なギルトの概念について触れておく必要があります。日本や東洋の国では恥の文化があると言われており、アメリカや他の西洋の国では罪(ギルト)の文化があると言われまず。私は、これは事実だと考えています。しかし、私の日本での経験を振り返ると、私が震災の時に見たものはサバイバー・ギルトであったと思います。もし、日本や台湾で、サバイバー・シェイム(恥)が存在したとすれば、私は認識することができませんでした。

もし、皆さんの中で、日本や他の東洋諸国でサバイバー・シェイムが存在していると思われたならば、そのことを是非研究していただきたいと思います。私にはこれ以上シェイムを語ることは出来ません。

◆ギルトの概念◆

ギルトは不快や悔恨、後悔や白責を含んだ、不愉快で、不快な、否定的な感情で説明されます。概して、ギルトは人が行ったこと、または間違ったことをしたと信じていることへの結果なのです。ギルトは個人の内面から発生します。彼らがしたこと、またはしなかったことの本質は重要ではないのです。ギルトは、人が間違ったことをしたと信じる、ということから発生するのです。

  一般的に、ギルトは、法的な罪、宗教的な罪、心理的な罪に区別できます。法的な罪とは、法律を犯すことによる結果です。もし、その個人が捕らえられ、犯罪が明確となれば、その個人は法的手段によって罰せられます。例え、その個人が法を犯したとしても、彼は過ちを犯したと考えないかもしれないし、罪の意識がないかもしれません。

  次に、宗教的な罪とは、その宗教の教えを破ることから発生するという意味では、法的な罪と類似しています。キリスト教においては、それを”sins(シンス)”と呼びます。Sinsは、キリスト教者にとって世俗の法的犯罪と同等の意味を持っています。罪悪感から解放される為には、許しを請わなけれぱならず、懺悔をするでしょう。もしその者が厳粛なる信者でなければ、法的な罪と同様に、教えに背いたとしても、悪いことをしたという意識は持たないでしょう。この2つのタイプのギルトは、全ての文化や社会の一部分でありますが、それぞれの文化や社会が、それらの罪がどのような意味を持つのか、を定義づけます。人々はまた、法的または宗教的な罪を災害の一部とも感じますが、それは今日の論点ではありません。

 3点目の心理的な罪とは、今日私たちが注目すべき視点です。心理的な罪とは、個人が何か過ちを犯したと思う心情から発生します。その過ちを犯したという心情とは、その人自身の信念や規範に従って行動しなかったということです。その人が行ったことが、法的に、宗教的に、または他者の基準で悪いことであったかどうかという本質は重要でありません。重要なのは、その人が何か悪いことをしてしまったと思っている、個人的な信条なのです。その人はもっと考え、気づき、違った行動をすべきであったと思い込んでいます。

◆サバイバー・ギルトは心的外傷反応の一部◆

サバイバー・ギルトは心理的な罪であり、心的外傷反応の一部です。被災者にあっては、世俗や宗教的な法を犯すかもしれませんし、そのことで罪を感じるかもしれませんが、法を犯すこととサバイバー・ギルトは同義ではありません。サバイバー・ギルトは、あなたが何か間違ったことをしたと信じることの結果です。あなたは、もっと考え、気づき、違った行動をすべきであったと信じているのです。

  まず、第一に、生存者は、周囲の者と比べて自分が何も喪わず、傷ついていないことに罪悪感を持ちます。そして、生存者は、被災地でやれることをしたとしても、しなかったとしても、罪悪感を持つのです。これから、この二側面から探究していきます。

  まず、人は、他者が死亡したのに自分が生存したこと、他者よりも傷ついていないこと。他者よりも損失が少ないことに罪悪感を持ちます。たいていは、これらの感情には気がついています。一方、この罪悪感の他側面は、しばしば、自分が死なず、傷つかなかったことへの感謝の気持ち、安堵感を認識していても、それを拒絶するのです。人々は心の奥底で、「私や家族でなくて良かった。神様ありがとう。」と思っているのです。たとえ、これが人として全く正常な反応であっても、それを許容するのは難しいことです。多くの人が亡くなった時に、自分や自分の家族が生き残ったからといって、このように幸せを感じることは正しくないように思えるのです。ですから、人は、ありがたいという感情を認識することを拒否します。もし、そのような感情がひょっこりと顔を出したとしても、直ちに押しのけてしまいます。

  また、サバイバー・ギルトでは、「なぜ」と自問自答したり、不思議な考えに没頭したり、日常生活が行えなくなる、いうこともあります。生存者は、「なぜ」という質問を繰り返します。「なぜ私はあまり傷つかなかったの?」「なぜ私は生き残ったの?」多くの人が自分自身の存在意義や命の意味を問い始めます。これらの問いは、不安や白己不信、これまで自身が過去に行ってきた人生における選択にまで疑問を持つようになります。これらは、ほとんどの文化において容易に語られる部分ではありません。最終的に、サバイバー・ギルトを持つ人は、これらの思いを他者と分かち合おうとしても、ますまず孤立し、罪意識が深くなるかもしれません。しかしながら、生存者にとっては、その事を語れる他者がいることが重要であり、信頼できる友人を探さなけれぱなりません。

◆自分を追いつめるサバイバー・ギルト体験者◆

 私たちは、自分と同様に傷ついている人に出会った時、何かをしておげたくなります。サバイバー・ギルトを持った人は、そのような不思議な考えに没頭していきます。私たちは、「もし私がより傷つけば、あなたがそんなに傷つかずにすむ」と考え、人は自分自身を罰しようとします。まともな食事をしなかったり、一日一食にしたりします。映画に行くのを止めたり、その他の娯楽活動を止めたりします。自分は充分なことをしなかった、と多くの時間を自分を責め立てることに費やします。白己犠牲の究極的な証明として白殺を決意する人さえいます。これはもちろん無分別な考えですが、その人というのは、「自分自身を罰すれば、被害を元通りにすることができたり、少なくとも悪いことが再び発生することを防げる」と考えるのです。この不思議な考え方の願いは、悲劇的な出来事を覆すためなのです。

  友人や家族や専門家は、これらの人々の考え方がいかに非合理であるかを分らせ、事故懺悔を克服するように助ける必要があります。これは、その人と向き合うという意味ではありません。それは、その状況における現実をゆっくりと思い出させるように支えることを意味します。自分自身を罰しても何の助けにもならないということ示してあげる必要があります。

  私は震災後の日本で、このような状況にある人を見ました。人々は外食をしたがらず、映画にも行きませんでした。これは、私の個人的に経験のみならず、あちらこちらで見かけることでした。

  そのようにサバイバー・ギルトを堪え忍んでいる人々は、自分が生き続けるべきではないと感じるようになります。彼らは、自分は親密な人間関係や友人関係、専門家としての成功を得る権利はないと感じます。そのような事は、亡くなった方や、傷ついた方、今なお傷ついている方に対して無礼なことだと考えます。自分が生き続けるべきではないとする他の方法としては、その残りの人生を亡くなった人の思い出を失わないようにすることに焦点を合わせて過ごします。そうすると、人々は、亡くなった人に拘束された状態となりますから、罪悪感や悲観を固守します。

  このような症状に対処するには、公的な哀悼に巻き込むことで、記念碑を設立したりすることです。そうすることで死者は決して忘れなられないのです。

  この点については、日本人はアメリカ人より充分な配慮をしていると思います。日本人には、死をどのように扱うべきか、死者はどのように思い出されるべきか、といったことに習慣的行動があります。日本人は思い出を作り、儀式を行い、そのことによって多くの人を救います。

  アメリカ人にはそのような習慣がありません。そのことにより、私たちは戦死者に敬意を払うことに長い年月を必要とさせました。私たちは、現在となってやっと、第二次世界大戦で戦死した者の記念碑を設立しているところなのです。私たちは、たった今、9.11テロ事件での死をどのようにして記憶に留めようか、どのような記念碑を選択しようかと検討しているところです。多くの9.11テロ事件の生存者は、死者の名誉の記念碑を待つが故に、日常生活に復帰できずにいると述べているのです。

◆サバイバー・ギルトは誤った前提に基づいている◆

 災害後の急性期が過ぎると、人は「なぜ」という問いかけのみではなく、自身の行動を振り返り、自分の行ったことや行わなかつたことについて罪悪感を持ちます。人はその個人的または専門的能力によって評価しています。これは、その人がリーダーシップを発揮しないといけない立場にあれぱ、より一層強く感じられます。

 危険な時期が過ぎ去ると、人々は「私が悪かった点は何だろうか?」と問いかけ、自分はもっと積極的に情報を得て、もっと活動すべきだったと考えます。実際には、あなたが災害の中で役割を果たせなかったのにはいくつもの事情があるのです。
 
 最も重要なことは、あなたが心的外傷体験をしていたということなのです。その結果として、おそらく、あなたの思考は正常に機能していなかったのです。しかも、あなたは、恐怖やパニックや怒りなどの強い感情を経験したのです。それでも、あなたはなんとか活動していたのです。しかし、それは災害の中での意思決定なので、通常の意思決定とは異なるのです。災害は予測不可能で、無秩序で、意思決定の時間は非常に限られてしまいます。災害の中では多くの出来事が発生し、何かに焦点を当てることが困難です。全ての出来事が一斉に起こり、一人の人間が全ての出来事を正確に把握ずることは不可能です。あなたが最善だと思う選択肢の全てを試す時間がないのです。他者の意見を聞く時間すらないことが多発します。そのような中で、あなたは、自身や他者を救うために、直ちに行動しなけれぱならないのです。それと同時に、あなたは、自分が役割を果たすための能力に限界があることに気づかされ、それが更なるストレスを与えまず。災害の中にあっては、あなたの心理、感情、精神活動は、様々な程度で低下しています。あなたはその悪条件の中で最善を尽くしているのです。
 
しかしながら、災害が落ち着いた後には、人々は「私はもっとすべきだった」とか、「私はすべき事をもっと考えるべきだった」と考え始めるのです。このような考えと感情が伴うことが、サバイバー・ギルトの一部なのです。そのギルトは、たいていが「私はもっとすべきだった」という誤った前提に基づいています。それが不可能であったにもかかわらず、もっとすべきだったと思うのです。

  私は、言葉が話せず、看護師として活動出来ませんでしたので、本当にこのように感じました。日本全国の看護師を対象として講演活動をする中で、現実的にはそんなことは不可能なのに、多くの看護師が「もっとすべきだった」と感じていることが分りました。実際には、全国の看護師が神戸に来てしまったら、全国にいるその他の患者が救われないのです。台湾を訪れた際には、看護師達は「今以上に出来ることは何か」と問い続づけましたが、彼らが他にすべきことは何もなかつたのです。私は、多くの看護師が今目に至っても、自分がもっとすべきだった、と考えながら生活していると思います。

  他に誤った前提としては、あなたが行ったことは効果的ではなく、役に立っていなかったと思うことで、実際には効果的で役に立っていたのです。これも、私が感じたことの一つでした。私は看護師達と心的外嵯反応について話をしていましたが、その事が私を救うこととなり、これが本当に他の看護師の助けとなっているのだろうか、と考え始めたのです。また、私達の地威で医療施設外に短期的に援助に来た看護師達は、本当に役に立っているのかと尋ねたりしました。今となって私は、私達のしたこと全てが最善であり、役に立ったと信じていますが、その当時は不十分だと感じたのです。私達は災害に備えるときや災害の教育する時には、この事を思い出さなければなりません。彼らは、決して役に立ったとか、充分だったと思えないので、その内容に閧係なく、私達は全ての人々に、彼らがしたことは役に立ったと分らせる必要があります。

  その他の誤った前提としては、おなたは精神的、感情的反応をコントロ一ルし、当然出来ない時期なのに、最高の活動をすべきだと思うことです。これは、目本では特に強い前提でした。もしかすると多くの東洋の国でそうなのかもしれません。それは全ての文化において一要因ではありますが、日本では大変強く見受けられました。私が最も重要だと思い、震災後に行ったことは、大学の教員や看護師達に対して、この感情的な反応は正常であり、通常のような役割を果たすことはできない、ということでした。これは、私自身に言い聞かせるためにも大切なことでした。その時、私達は共感し、私達のストレス体験を表出することを許し、それが物事を良い方向へと導いたと思います。災害はあなたに異なった感情を与え、異なった行動をさせまずので、私達は、その事を理解し、受容しなけれぱならず、そうすることで日常生活に何とか立ち戻れるのです。

  災害は混沌としています。常に失敗が起こります。生存舌は、失敗を幾度も繰り返ずので、「私はもっと知っておくべきだった」と考えます。災害の中では、私達医療者は、その時点で可能な限りの最善で最適なケアを提供します。しかし、私達は失敗をし、その失敗を振り返った時、もっと知っておく必要があったと罪悪感を持ちます。このギルトは、災害当時にあなたが持っていた実際の知識よりも、あなたが持っていた知識に基づいた役割に必要な能力を判定した結果です。外傷や死を招いた失敗は、當に深刻に受け止められます。しかしながら、災害の中にあっては、私達はこの種の失敗を、いずれにせよ得られた結末であったかもしれないと、受け止めなけれぱなりません。この最も厳しいサバイバー・ギルトは、その状況においては防ぎようがなかつた事故として克服します。

  私は、多くの看護師が「私はもっと情報を集めるべきだった」と言うのを耳にしましたが、彼らが活動していた状況を述べてもらうと、それが不可能だったということが分りまず。通常の基準はもう適応しない状況でした。しかし、看謹師達は、自分達自身を通常と同じ基準に起き続け、自分達が何か間違ったことをしたとか、正しいことをしなかったと信じていました。私自身は、これを少し違った形で体験していました。私は、震災後どのように運用すればうまくいくのかを知っておくべきだった、と感じました。なぜなら、私は一度同じような地震を経験していたからです。しかし、私はどのように運用すれぱ上手くいくのかを知りませんでした。私は常に、「私は何をすべきなのか知っておくべきだったのに」と、思っていました。私はどのように支援すべきか知っておくべきだったのに知らなかった、と罪悪感を持ったのです。

サバイバー・ギルトへの対応

 以上が、私が体験し、皆さんにお伝えできるサパイパー・ギルトです。さて、ここからはこのサバイバー・ギルトをどのように管理すればいいのか、をみていきたいと思います。 災害の混沌とした状況下では、誰もこのような緊急援助が必要なことに注意を払いません。私は、サバイバー・ギルトを持っている人々に特別な注目が必要だとは言いません。しかしながら、感情に深刻な傷害がある者が見落とされています。私が言っていることは、災害においては、私達全ての者が損害を被っているということです。ある者は死に、ある者は傷ついていますが、全ての者が様々なレベルで精神的に傷つき、多くの者がサバイバー・ギルトを持つのです。失望感を持った舌は多くを語りません。彼らは生き残ったことについて、すでに罪悪感を持っていますので、その他細かい罪悪感について訴えようとはしません。しかしながら、負傷しておらず、全くあるいは少ししか損失がないと思っている人であっても、災害を体験し、そのことによって精神的な影響を受けているとして援助しなけれぱなりません。

  私は、この事について研究的データを持っていませんが、私の経験と、私が災害生存者と話したことに基づいており、多くの人がサバイバー・ギルトを持っていると考えています。これらの人たちは身体的には健康ですが、目當生活を回復させるための地域社会を失っています。私達はこれらの人々を支援ずる必要があり、彼らが地域社会を回復させることによって、彼らが罪の意識を感じることにエネルギーを使わせないことができます。私達には、少なくとも4通りの支援ができます。
  私達は、災害のほとんどを予測ずることができず、それによる生存者は無作為だということを知らせなければなりません。災害は予測不可能で、誰も生存するとも、生存しないことも選択できません。災害が起こるだろうことを知っている人ll〜いたとしても、誰も利点を持ちません。生存者は無作為的です。災害においては、ある人は生き残り、ある人は死ぬのです。生き残った者はそれを受容しなければなりません。

  2点目は、私達は、人々に、自分自身を罰する必要なないのだということを知らせなけれぱなりません。彼らは目當に立ち戻る必要があります。仮に地威社会が災害から回復したとしても、生存者は、必要なものを食べ、眠り、可能な限り楽しむことを支援されなけれぱなりません。目當生活の活動を何とかやつていくことによってのみ、私達は災害の荒廃を乗り越えられるのです。自分自身を詞することは、亡くなった人や嵯ついた人にとつて、何の助けにもなりません。私達は、可能な限りすぐに立ち上がり、通常のように活動しなけれぱなりません。

  3点目は、私達は彼らの考え、感情、活動が展望をもてるように支援しなければなりません。彼らはより大きな未来を見据える必要があります。そして、災害は無秩序であることを思い起こさせなけれぱなりません。人々は當に適切に考え、行動ずる必要はありません。可能な限りでは、災害が引き起こしたことについて避難すべきではありません。可能な限りと申しましたのは、全ての人群ストレス下にあり、そのストレスを処理する唯一の方法が他者を避難ずることだからです。災害準備や災害教育の総点は、災害発生時でのその人の役割を支援ずるということです。教育の一部としては、災害は無秩序で、その役割はしばしば損なわれることにも注目すべきです。災害に対する人々の反応を避難すべきではないと教育しなけれぱなりません。私達が、役割機能が損なわれ、失敗が起こるだろうことを受容できる人材を育成できれば、多くの、特に医療舌におけるサバイバー・ギルトを予防し、減少させることができるでしょう。

  4点目は、私達は、支援したい、役に立ちたい、と思っている生存者を支援計画に巻き込まなければなりません。災害後、大学教員と話をした時、何度も何度も「私に何ができるでしょう?」「こんなに多くの人群助けを求めている時に、どうやって教育活動に戻ることができるでしょう?」「私達はどのように振る舞い、考えるべきでしょう?」という言葉を聞きました。誰かの役に立ち、人助けをしているうちに、人々は生存したことへの罪悪感を削減していきます。ですから、まずは、災害において生存ずるか否かは、無作為であるということは繰り返し、繰り返し伝える必要があります。誰も、事前に生き残るように選択されていません。私達は自らを罰する方法ではなく、人々を激励ずる方法が必要なのであり、日當生活に復帰しなけれぱならないのです。私達は、私達の思考、感情、活動を客観視し、私達すべての者が災害の状況下において最善をつくした、と受け止める必要があります。そして最終的には、生存舌に何らかの支援方法を与えたり、関心を示す必要があります。

  私達、兵庫県立大学はその方法の一例を開発したと思います。私達は、直ちに活動を初め、心的外傷反応や災害の精神的影響に直面しました。私達は可能な限り早急に講義を再開し、人々が通常の行程に復帰できるように激励しました。また、教職員は、互いを助け、支援する必要性を理解していましたので、生存したことへの罪悪感は最小限であったと思います。また、看護協会との協力し、南学長と教職員は、医療施設が必要としている支援を明らかとするために、看護ボランティア調整本部を開設しました。これにより、生存者が支援活動をする方法を提供しました。

  全体を整理しまずと、災害はどこにでも発生します。災害を経験した誰もが心的外傷反応を起こし、その心的外傷反応の一部がサバイバー・ギルトです。私の経験に基づきますと、心的外傷反応は万人に共通したもので、全ての生存者が様々なレベルで罪悪感を持ちまず。サバイバー・ギルトは、少ししか傷つかず、失わなかった者に対して最も重大なものです。生存舌は罪と感謝を同時に感じます。災害後の数ヶ月間は、サバイバー・ギルトを体験している人たちを多く目にしまず。結果的には回復過程で役割を果たした生存者であっても、自らのエネルギーを罪の意識と役に立たなかつたと感じることに向けるかもしれません。ですから、サバイバー・ギルトが認識されない時、生存者は何年もの間苦しむことはもちろん、地威社会は支援力を失うことになります。

  私の経験においては、誰が生き残るかは無作為なことであると気づき、自分を罰するのではなく他舌を励ますこと、そして日常生活に復帰することによって、サバイバー・ギルトから救われまず。時には、被災者は様々な程度での役割損傷や失敗をずるかもしれないことを理解することによって、行動を客観的にとらえる必要があります。そして、最終的な生存者が生存したことの利点は援助ができることなのです。

  最後に、今日は皆さんにお話する機会が得られたことに感謝します。災害中の行動を理解することやその後に感じることは、時には苦痛です。しかしながら、それはゆくゆくはなされなければなりません。日本の皆さんは、「そんなことは助けにならない、耐えられない」と言うと思いますが、ゆくゆくは、その体験や感情はあなたに追いついてきます。私達全ての者がその俸験を直面しなけれぱなりませんし、いつも私達の歳月に残ります。私は、あなた達はあの時支援をしたし、それは復興を充分促進したと確信しています。

参考文献
Matsakis,A(1999). Survivor guilt- a self-help guide, New Harbinger Publications,Oakland.


 
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